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「ホワイトバンド」批判 ~叩かれるだろうなあと心配しつつ~

 俺は、こことは別にHPを持っている。そのバナー広告に今、「ホワイトバンド」が出る。まあ、何のことかわからない人もいるかも知れないので、一応引用しておく(http://www.hottokenai.jp/index.html)

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3秒に1人、子どもが貧困から死んでいます。食べ物がない、水が汚い、そんなことで。この状況を変えるには、お金ではなく、あなたの声が必要です。貧困をなくそう、という声を表すホワイトバンドを身につけてください。
(中略)

世界の貧困をなくすために、日本にできることは、
援助をふやす、援助をよくする、
最貧国の高すぎる返済金利を少なくする、
そして貿易をフェアにする、この4つです。

(中略)
そもそもなぜホワイトバンドを売っているのですか?

ホワイトバンドは、これを身につけて「貧困をなくそう!」とい う思いを表すシンボルです。「白いバンド」であればよいので、 いろんなものがあ り得ます。このウエブサイトでは日本版のオ フィシャルホワイトバンドの販売について紹介していますが、 「白」であれば、多種多様なバンドがあって構わないと考えてい ます。たとえば白い紐や包帯であってもいいのです。 ただし「ホワイトバンド」として売られているものの中には、営 利目的のモノであったり、フェアな貿易を無視して生産された品 があるかもしれません。購入する際には、売上の使途には注意を 払い、納得のできるものかどうか、ご確認のうえご購入くださ い。

ホワイトバンドの300円は募金ではないのですか?

ホワイトバンドの300円は、いわゆる募金運動ではありません。 「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーンは、善意によってなされる寄付や募金の意義や価値を十分認めつつ、それだけでは世界の貧困はなくならないという認識から出発しています。世界の貧困には、それを生み出す世界の構造の問題があり、それを 変えることなくしては、いくら善意の寄付を積み上げても、貧困 を生み出す速度には追いつけないのです。それゆえに、「ほっとけない」と連動している世界各国のキャンペーンでは、「チャリティーではなくジャスティス(正義)を」、「あなたのお金でなく声をください」というスローガンを掲げています。貧困の詳しい構造については、こちら(特に「このキャンペーンはチャリティですか?以降)http://www.hottokenai.jp/faq/をご覧ください。

ホワイトバンドの売り上げはなにに使われるのですか?

こちらの円グラフhttp://www.hottokenai.jp/white/300yen.pdfをご覧ください。 ホワイトバンドの売上の3割は、世界の貧困をなくすための活動費に使われます。この、「世界の貧困をなくすための活動」は、現地での支援活動ではなく、途上国から先進国に富が流れてしまうような構造や、貧困からの脱却のために努力する人々やNGOの活動 を台無しにしてしまうような政治や経済の仕組みを変えるための 活動です。そのためには、ホワイトバンドをつけた人の声を集め、政治や政策をつくる人達への影響力をもっていくことが必要です。
ただし、ホワイトバンドをNGOから購入した場合は、NGOの活動支援になります。詳しくはこちらhttp://hottokenai.jp/ngonews/archives/001_campaign_news/000590.html#more
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 確かに、世界の貧困の問題は「放っておけない」。貧困+憎悪=テロだ。先進諸国も我が身が可愛ければ貧困を何とかした方がよかろう。かつての「金を送ればそれでいい」的なチャリティーからは一歩前進である。「世界の貧困をなくすために、日本にできることは、援助をふやす、援助をよくする、最貧国の高すぎる返済金利を少なくする、そして貿易をフェアにする」の4つらしい。確かにどれも良いことである。実行すれば間違いなく今よりは貧困の問題が解決に近づくだろう。
 しかし、である。「正義」という言い方に俺はカチンと来る。正義の名の下に爆撃したりとか…。まあ俺の戯言は置いておいて、少ない脳味噌を動員して考察してみた。なぜこんなに生理的に受け付けないのかと。


 そもそもなぜ貧困があるのか?
 貧困はアフリカ、アジア、中南米において顕著であるが、中南米の場合は米国政府に支援された軍事独裁政権+多国籍企業 による搾取が原因である。アジアの場合は色々原因があるが、いずれも旧植民地時代の分割統治や、大国の地政学的見地からの干渉が大きなウェイトを占める。アフリカの場合、植民地時代の分割統治+欧米の多国籍企業が原因の大部分を占めるのではないだろうか。アフリカの場合、今さら国境線の変更や民族融和など難しいので根は深いが、中南米の場合はアメリカが手を引けば問題の大部分は解決しそうだ。
 
 さて、こういった貧困の原因を考えるにつけ、ホワイトバンドは政治的なアクセスが可能であろうか?
 先日、U2を初めとしたミュージシャンが「ライブ8」なるものを行った。G8のお膝元でライブを行い、ミュージシャンの持つ動員力とミュージシャンの意見に賛同する市民の声を政治家に見せつけたうえで、途上国の債務帳消しと支援という要求を求めるというものである。
 結果として、途上国の債務の一部だか全部だか知らないが帳消しになったらしい。ロキオンの山崎洋一郎は、債務帳消しなど茶番である、どーせその金で先進国から小銃と地雷を買うから、と批判していた。むしろ、政治家の人気取りに利用されただけだ、と。俺もその通りだと思う。そして、このホワイトバンドも、利用されて終わる気がする。なぜか。
 見ると、件のサイトでは「小泉首相、『国連2005ワールドサミット』にぜひ出席してください!そして『日本は世界の貧困問題に責任を果たす』と明言してください!!」などと言っている。http://hottokenai.jp/ngo/koizumi.html
なんだか、もし小泉やブッシュがホワイトバンドしたら、それだけで問題が解決しそうな雰囲気である。
 この人たちは本当に小泉さんの政策を見ているのだろうか。今、自民党政権は国民に対して大規模な「攻撃」を加えている。
 例えば「郵政民営化」。民間の保険屋に巨額の資金が流入する仕組みを作ろうとしている。一方、保険屋の方は学者と手を組んで、遺伝子情報などから、少しでも「リスク」を持った人間からはぼったくるか最初から加入させない。弱者をさらに叩く構造というわけだ。
 例えば労働政策。「ワークシェアリング」「労働の弾力化」の名の下にリストラ&バイト奴隷労働を推奨する財界の言いなり。労働者の一人として、労働基準監督署の機能強化と、労基法違反企業への罰則強化や、内部告発者への法的保護など、色々実現して欲しいことはあるが、そっちは全くやらない。「民に出来ることは民で」らしい。かくて、労働者は社長に搾取される、と。バイトは生活が安定せず少子化は進むばかり。
 ちなみに、本来のワークシェアリングとは、残業を無くして、(場合によっては基本給も少し下げるらしい)その分浮いた余剰を新規に雇った労働者の賃金に充てる、というものだ。まさに「労働の分かち合い」。社員は、手取りは減るが仕事量も減ったので満足。失業者は新しい仕事に就けて満足。一方、企業も、ワークシェアリングをやると税制上優遇されるのでお得。これがヨーロッパのワークシェアリングだ。日本では、仕事が回るギリギリまで人員を削減し、残業させ、忙しくなると派遣やバイトを雇う。なぜこうなるかというと、残業手当が安いから。安いので、残業させた方が、新規に人を雇うより、社会保険料その他の負担がないのでお得なのだ。日本の平均残量手当は1.25倍。ヨーロッパは1.5倍。お分かり?しかもここに、「サービス残業」が入ると…
 話が逸れた。こういった「国民への攻撃」を行う小泉政権が、人を救うだろうか?大企業は救うかも知れない(笑)し、政権の延命のためにたまに良いこともする(熊本地裁のハンセン病訴訟における「控訴断念」のように。同時期の大阪高裁における水俣病関西訴訟は「即時上告」だったが)が、まあ期待するだけ無駄だろう。なぜ総選挙前という最も市民団体の政治アクセス力が強まるこの時期に、「ぜひ出席してください」なのか?むしろ、「出席し、貧困に取り組むと明言したら、投票してやる」くらいのことは言えないのか。あるいは「行かなきゃ民主党に入れる」といったネゴシエートも可能なのに、なぜしないのか。

 市民の力を結集して、新しいムーブメントを起こすというのには賛成できる。

Those of us who love peace must organize as effectively as the war hawks.
As they spread the propaganda of war,we must spread the propaganda of peace.
(Martin Luther King Jr.)

 また、「限られた資源へのアクセス」こそが政治の本質だとするならば、特に選挙前の今、市民の結集は大きなアクセス力を持つ。こういったタフなネゴシエートを可能とする市民運動が多数起これば、政治も変わらざるを得ないだろう。「土建」「財界」「農協」「医師会」といった圧力団体の列に、「貧困解決を目指す市民団体」というのが連なったらなかなか楽しそうだ。
 にもかかわらず、この運動がえらく俺にとってひ弱に見えるのは、「お願い民主主義」的な部分がある、というのもあるが、根本的には「正義」を振りかざしているからだろう。「正義」を振りかざして人間を動員していくのはむしろあっち側の十八番だ(N・チョムスキーの著作参照)。簡単に利用されるだろう。ライブ8のように。
 また、基本的に「ホワイトバンドを買って身につける」=消費という形態で、意思表示を行うという形式が生理的に嫌いである。
 加えて言うならリスクのなさ。ほぼノーリスクである。世界を変えた人間達は、もっと大きなリスクをくぐって世界を変えてきた。
先に述べたキング牧師も然り。
 それに、「公正貿易」は口で言うほど簡単ではない。とりあえずコーヒー、カカオ、バナナといったプランテーション作物はもの凄く高くなる。そういった典型的な「不公正貿易」だけでなく、多国籍企業による現地搾取まで視野に入れるなら、ユニクロ、ジャスコ、マクドナルド、スタバetcetcといった都会人お気に入りのチェーン店は軒並み「不公正」である。都会人は耐えられるのか?そういう意味で、「公正貿易」にはリスクがあろう。「不公正貿易」をしている企業をなるべく利用せず、公正貿易をなるべく利用する。それは、リスクというにはあまりにもしょぼいが。



「結局は、自分たちの『豊かな消費生活』の方が重要ですから」
(遠藤浩輝「EDEN」(講談社)より)




 とりあえず、バンドを買う金があったらアマルティア=センの著物を読んだ方が良いのではないだろうか。一万人がバンドを買うより、100人がセンの著作物を読んだ方が世界を動かすと思う。
 バンドは人を変えない。買ったことによって「俺は変わった」と勘違いする人間はいるが。
 人間の意志が現実世界に具現するとき、本や音楽、言葉、詩など、様々な形を取るが、それらは、心に入り込み、人間を変える可能性を持つ。そして、世界を変えるのは人間なのだ。
 バンドを買って誇示することによって「俺は変わった」と思う程度の人間、その程度の意志、そんなものが他人を変えうるだろうか。世界を変えうるだろうか。カルティエやグッチで身を固めて「私ってすごい」と思っているのとどこが違うのか。ホワイトバンドした人間1万人ぐらいでデモ行進したら相当すごいが、運動のベクトルとしてそれはなさそうだ。

 あるいは俺が心配している以上に単純人間が多くて、例えば全人口の95%が購入したりしたら変わるかも知れないが(まあ、それも利用されて終わるだろう)
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by g2005 | 2005-09-08 02:13 | 主張

情報に踊らされ、他人に依存するマリオネットのままでいいのか!?

 僕は、今年度の初め頃、確か6月くらいだと思ったが、友人に手伝ってもらって、TVを実家に持って帰った。家電リサイクル法がなければ、叩き割って粗大ゴミに出していただろう。とにかく下らない番組に辟易していた。部活や研究で(ちょっとだけ)疲れて帰ってきて、さて部屋でくつろごう、と思っているのに、TVのスイッチを入れて5分後には「死ね!このウジムシ野郎!」という気分になり、くつろぐどころか疲れてしまう、そんなパターンに辟易したのだ。もちろん、TVというハードが全面的に悪いのではなくて(一方通行という問題などはある)、くだらない番組を作るマスコミ人に問題があるし、そしてそれを見て笑い、受容するカスが決定的に多いということに問題がある。素晴らしい番組だってたまにはある。問題は、番組の90%以上が僕を「クソヤロウ!」な気分にさせるということだ。末期には料理番組と天気予報しか見てなかったな。
 ニルヴァーナのカート・コバーンは、93年8月(自殺する3ヶ月前)に、アルバム「イン・ユーテロ」に関するインタビューの中で以下のように述べている。

(インタビュアー)
"ダム"の歌詞はとりわけ直接的に思えます。人生における、単純で、下らないけどささやかな楽しみを歌っている、"I think I'm dumb/Or maybe just happy"(俺は馬鹿だよ/それとも単に幸せなだけかな)なんて、これは今あなたのおっしゃった、これまでになかった楽観性を反映しているんでしょうか。それとも皮肉として捉えるべきですか?
(カート)
「それはすぐ面白がる人間を歌っているだけだ、知性を伸ばせないばかりか、10時間テレビを見続けても何の不満もなく、心から楽しめる人間のことさ。愚かな人間はたくさん見てきたよ。くだらない仕事して、完全に一人ぼっちだったりしてさ、ガールフレンドもいない、それでも、どういうわけか、幸せなんだ」
(インタビュアー)
そういう人が羨ましくなることはありませんか。
(カート)
「時々ね。なんか薬があって、それを飲んだらテレビ見て笑えるようになって、人生の単純なことを楽しめるようになれたらいいのにな。(中略)」
(ロッキングオン2004年4月号94p)


 これが決定打となり、僕はTVとバイバイした。周りの意見を聞くと「スイッチつけなきゃいいじゃん」とか「そんなにTV番組をヤバイと思ってるのはオマエだけだよ」とか言われ、なんだか僕が変わり者のような気がしていたが(マイノリティであることは間違いない)、似たようなことを考えている人がいてややホッとした。ロッキングオン2005年1月号の古山氏のレビューである。


 夕方のニュースを見ていると、ふとした瞬間に自分自身を疑いたくなることがある。行ったことがない国で人が殺された報せに悲しみ、バカな評論家が煽る実際には起こりもしょうのないような最悪の事態のシュミレーションに不安を覚え、一貫数千円の寿司の映像にヨダレを流し、仲間由紀恵のCMにちょっと嬉しくなり、ひいきのチームの試合の途中経過に一喜一憂し、天気予報の頃には酔いが回ってどうでもよくなる。一時間のうちにこれだけの「感情」の変化がありながら、それを当然のものとして何も考えずに受け入れていることに怖くなるのだ。その度に周りを見回すけれども、誰もそのことを気にしていないようだし、僕自身そんな疑問や不安に対しての興味は数分も経てば消えて、また数ヶ月は現れなくなる。(中略)
 そもそも「感情」とは、外からの刺激を自己の価値観の中でどう捉えるかによって生じるものである。だから、内面世界でそれが生まれた瞬間は個人個人で微妙な違いがあるはずだが、現実世界に還元されたとたん、よほど強い意志を持つか少数派のものでない限り、現実世界の秩序を守る道徳・倫理観に枠組みされた均一的な「感情」の分類に振り分けられ、どれが自分のものかわからなくなってしまう。しかし、それでも満たされた気になるのは、その枠組みにあてはまることができたことで、現実世界での自己の正当性と正義感を保てたことに安心するからであろう。こう考えると、「感情」とは現実世界で生きていく為の内面世界の補整や修正をするドラッグ以外のなにものでもない。結局、我々は「感情」そのものではなく、それが現実世界で行き着く先に快感を覚えてしまったため、内面世界での「感情」に目を向けなくなってしまったのかも知れない。
 (中略)ただこの数年、社会があまりにも「善いこと」と「悪いこと」が明確なものに変化していった中で、多くの人間が同じものを見続けてきたせいか、個人の価値観と社会の価値観が接近しすぎてしまい、それにともない、個人の「感情」がストレートに現実世界の「感情」の枠組みにつながるという危険な錯覚も生まれてきてしまった気がする。例えば数年前、マスコミが煽って「癒し」や「勝ち組・負け組」なんて言葉がちょっともてはやされ、あの女優は癒し系で、ここの社長は勝ち組で、そのドラマは純愛で…というように、誰もがあらゆる事象にそれをあてはめた。あらかじめ価値観の枠組みを設定し、それにあてはまる事象のみ見続けた結果、その事象自体が具現化した「感情」として扱われるようになってしまったのだと思う。
 そんな中、その状況につけいったのか、その真っ只中にいて「感情」に酔いしれているヤク中が作っているか分からないが、最近、均一化された「感情」の枠組みを押しつけるような愚かな小説や映画、音楽が氾濫し、多くの人間が作品に触れる前から期待していたお目当ての「感情」を得て、我が物顔で自分独自の「感情」のように自慢げに「感動した」、「悲しかった」と言い放っている。(中略)このように安易に売買される「感情」を作ったり、手にしたりして満足している人間を見る度に、僕は彼らを殺したくなる。そして、そんな反道徳的な「感情」を抱いているにもかかわらず、僕はその時、現実世界で生きていくための内面世界の補整や修正をしているように感じるのである。僕は病んでいるのだろうか?
 (中略)一方、ロックは表現者の内面世界の一部を切り取って抽象的な世界に創作していったため、入り口は広く、最初はリスナー一人一人が自由な捉え方で「共感」していたのだが、シーンの拡大によりその抽象的な世界自体が一つの価値観や枠組みと化した時、表現者の意図とは異なる問題も内包して「依存」の対象となっていった。そして、それを受けて表現者はインタビューでの補足に追われるようになり、犠牲者まで生むことになる。(中略)
 (中略)ブッシュがまた大統領になった今、反ブッシュを唱えてきた人びとはこれからの4年間をどう過ごすのだろう?と考えたとき、結局迫ってくるのは「個」としての在り方だと思う。ポピュラー・ミュージックはそこまでは提示してくれないし、それを示す必要もない。なぜなら、そこには聴き手個人の希望を託す余地が存在するからであり、それこそが過去何度も社会変革に失敗してきたにもかかわらず、未だに我々がポピュラー・ミュージックに夢を見る理由である。
 (中略)音楽は世界を変えなくても、人間を変えることはできる。そんな基本的なことを忘れて、いつまで「依存」を続けるのだろうか。今、この瞬間も世界中のどこかで音楽は鳴り、どこかで人が殺されている。あなたの「感情」は、今どこにありますか?
(ロッキングオン2005年1月号147~148p、"あなたの「感情」わたしの「感情」~エリオット・スミスの遺作『フロム・ア・ベースメント・オン・ザ・ヒル』によせて~")


 僕は古山氏の言いたいことに全面的に賛同する。もちろん、事実認識のレベルで僕にとってやや肯定しかねる部分もある。『ただこの数年、社会があまりにも「善いこと」と「悪いこと」~』という下りがそれで、むしろ明確な価値軸を自分自身では(経験や勇気の不足で)打ち出せないヘタレどもが、マスコミやクソ野郎が打ち出した価値観に飛びついた、という捉え方を僕はしている。ちょうど、若者が日の丸に飛びつき、他人を誹謗するのに似ている。彼らは偏狭なナショナリズムから「韓流ファック」と言うが、主体性の欠如したメンタリティーは変わらない。ようするに、他人の作った価値観や構造に飛びつき、あてはめ、カタルシスを得るという意味において共通したヘタレなのだ。ただこんなことは枝葉の部分で、古山氏に賛同するということに影響はないが。
 僕も『安易に売買される「感情」を作ったり、手にしたりして満足している人間』に対しては、「おまえさん早く死んだ方がいいぜ」と思っている(つけ加えるなら「感情」だけでなく「価値観」も)。みんな、自分の頭で考えていないのだ。マスコミや一部のクソ共のプロパガンダが提供した「価値観」に従い、心の中から表出してきた何かを、既成の「感情」や「認識」に振り分けて喜んでいる。
 もちろん、僕の憎悪の対象はバラエティー番組の「笑い」といったポジティブな感情の「安売り」にも向いている。なんであんなくだらねえ事で笑えるんだ?それって他人のことだろ?芸人が何をどうしようが、自分自身とは何の関係もないだろ?頼むから、飲みの席で芸能人の話するなよ。お前と飲んでいるのは誰なんだ?
 また、こうした「感情」の状況について山崎洋一郎氏は以下のように述べている。

(モリッシーやキュアーの復活に関して)
 彼らは常に他人と距離を置き、物事に対して懐疑的で、周囲の状況に対してとりあえず反射的にNOと言ってしまうような気質があり、あれもNO、これもNOと言っているうちに出口がなくなって閉じちゃって、変な風に爆発しちゃうのである。これが80年代の屈折メンタリティーであり、ロックに対してすらNOと言った挙げ句に異形の音楽が次々と生まれていったのである。(中略)だが、今回復活を遂げた彼らは、もはや単なるNOではなかった。その復活作はどれも、これまでの異形のスタイルやコンセプトを貫いたまま強力な肯定性を放っている。今回の復活が同世代だけでなく若い世代からも賞賛されたのは、屈折したメンタリティーを何十年も貫きながら今の時代に大きな影響を与えるほどの普遍的な存在感を持ち得た彼らに、力強いYESを見いだしたからに他ならない。
 テロの多発だとか中学生による殺人事件だとか、まるで悪い夢でも見ているような気分にさせられる邪悪な事件が途切れる事なく次々に起きている。こんな世の中には、誰もがNOと叫ぶだろう。だが同じように、『世界の中心で、愛を叫ぶ』が300万部売れたという事実にも僕は悪い夢でも見ているような絶望的な気分にさせられる。パンク・ロックに相田みつをの詩を載せたみたいな青春パンクを聴いて若者が涙ぐんでいるのを見るのも僕にはひどい悪夢だ。『世界の中心で、愛を叫ぶ』を読んで、あの三流のドラマに感動した人は、きっと感動したかったんだろう。みつをパンクに涙ぐむ人は、きっと泣きたいのだろう。自分が今生きている世界に対して巨大なNOを言わざるを得ない代わりに、ささやかでもどこかでYESと言いたい。それがこうした三流のYESの大安売りとなって現象化しているのだろう。みじめな「ガス抜き」の構造。三流のYESでガス抜きすればするほど、戦うための唯一の武器であるNOは錆びつき、本当に確信に満ちたYESにたどり着く日は限りなく遠のいてしまうというのに。不治の病で死んだ恋人の物語に同情して泣いたって何も変わらない。「人間だもの」とか「そのままでいいがな」とかいう詩を読んで自分を許したって何も変わらない。何も変わらないという最も絶望的な構造にゆっくりと飲み込まれていくだけだ。
(ロッキングオン2004年8月号200p"激刊山崎")

 付け加えるならば、他人の不幸や勘違いしたつっこみ(と称する暴力)をネタに下品に笑い(「喜び」か?)を取るバラエティーも「三流のYES」であろう。まあ、笑いには免疫力を向上させる作用があると聞くから、サプリメントと割り切っている分には良いかも知れない。クソコメンテーターやクソ学者の討論は言うまでもない。
 古山氏や山崎氏の主張を聞くと、長渕剛が"Captain of the ship"で執拗に「お前がどうするかだ、お前がどう動くかだ」「お前がやれ、お前が舵を取れ」「お前が行け」と叫んでいたのを思い出す。『結局迫ってくるのは「個」』という古山氏の指摘は鋭い。僕もそう思う。僕たちが、したり顔してもっともらしいこと言うウザイ奴らの抑圧をはねのけ、自分自身の幸福を追求するためには、「お前がどうするか」が大事なのだ。「癒し」とか言ってる場合じゃない。「伝統」「愛国心」とか言ってる場合でもない。(その実態は、明治政府が作った「思い出」だったり、「愛国故の反抗」を抜きにした「政府に従う=愛国心」だったり)
 自分の頭で考え、行動する。それだけだと思う。それが他人の権利を侵害しない限りで。マリオネット人生からおさらばしようぜ。まずはTVから離れてみよう。




TELEVISION DREAMS OF TOMORROW
WE'RE NOT THE ONCE MEANT TO FORROW
FOR THAT'S ENOUGH TO ARGUE


テレビは明日を夢見てるけど
そんなものに従ってどうする
それだけで 既に疑わしいじゃないか

GREEN DAY  "AMERICAN IDIOT"より
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by g2005 | 2004-12-11 23:02 | 主張

結局重要なのは歳を重ねることではなく、主体的に生きることだ

(バイトの)登山ツアーでジジババによく説教されるが、奴らは二言目には「俺も(私も)若い頃は…」「若いねー」「最近の若者は…」。
ジョー・ストラマーの「月を掴む」ような生き方とは無縁だな、ケッ。(何のことか分からない人はザ・クラッシュ"ロンドンコーリング"のライナーノーツを見てください)

まず一言いっておきたいのは、年寄りのいう「伝統」「昔は…」の90%は伝統ではなく思い出(明治政府以来の「上からの伝統」)だということ。特に家父長制に完璧に毒された年寄りには現代の恋愛観や結婚観は理解不能(そのわりにオバサンはセカチュー好きだが)なので、その手の話題が出たらスルーだ。例えば

「最近の若い夫婦って、男が家事をしたりするのね」
「いやー、共働きなら当たり前でしょ」
「私の若い頃はそんなことなかったわ」
「そりゃ、今は共働きせざるを得ない社会構造(労働政策)すから」(アウトソーシングの時代!)
「でも私は文句一つ言わず家事をしたわ」
「専業主婦と共働き家事半分こと、どっちが楽かとかわかんないんじゃないすか」
「らくとからくじゃないとかじゃなくて、それが伝統って言うか、当たり前でしょ」
「それは明治以来の伝統ですよね。明治政府の作った家父長制という偽の伝統ですよ」
「そうかもしれないけど、私の若い頃は…」
「(いい加減疲れて)まあ、結局当人の問題すから」
「そうかも知れないけど、乱れてるわ」
「いやだから、家父長制の方が(日本の)歴史的に見れば乱れてるわけで…」

こんな調子である。伝統とか言わず、「私はそういうのは嫌い。だって私もそうしてきたんですもの」とでも言えばいいのに。
あと、ちょっと荷物を担ぐと「若いねー」だ。バカヤロ、トレーニングしてるんだよこっちは。貴様のビール腹と一緒にするな。

色々言いたかったが、若い頃から飼い慣らされてきた人たちには何言っても無駄であろう。
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by g2005 | 2004-12-11 22:53 | 主張