<   2005年 07月 ( 1 )   > この月の画像一覧

ブルース=スプリングスティーンの新譜から考えたこと

俺が映画や本を読んで泣くということはほとんど無い。普段から、人に感動させられるのではなく、自分の成し遂げた事に感動したいと思っているし、流行の「癒し系」とか「泣ける映画」など、所詮感情を売り物にした心の安楽死装置である。

しかし、あろうことかファミレスの中で、ロッキング・オン8月号を読んで泣いてしまった。
それは、渋谷陽一氏の「正義が人を殺す時代を終わらせるために -アンチ・ブッシュ・キャンペーンによってスプリングスティーンが獲得した真のリアルとは何か」というテキストによってである。

ブルース=スプリングスティーン、ちょっと洋楽に詳しい人なら必ず知っているアメリカのロック・ミュージシャンである。フォークからロックまで歌い、曲の内容としてはシリアスな曲からラブソングまで幅広く、基本的に一人でやる彼は、日本で例えたら長渕といったところだろうか。長渕を知的にしたらスプリングスティーンになるかも知れない(笑)。

そのスプリングスティーンの新譜「デビルズ・アンド・ダスト」について、渋谷氏は歌詞を直接引用しながら、彼の持論である「ライブ・エイド批判」なども織り交ぜつつ紹介していく。ちなみに、アルバムは速攻で買ったが、ラジカセが壊れて聞けなくなってしまった(笑)。

 スプリングスティーンは他のミュージシャンと共に、ブッシュとケリーが伯仲している州にで反ブッシュキャンペーン「ボート・フォー・チェンジ・ツアー」を行った。それは、ありがちなプロテスト・ソングの発表を通じた批判などではなく、文字通り体を張った
決意表明だった。このツアーに参加したカントリー寄りのミュージシャンであるディクシー=チックスなどは、彼女のファンである保守層から反発を受け、CDをトラクターで潰されるなどされ、スプリングスティーン自身も不買運動を起こされた。このようなリスクを背負いながら、彼はボート・フォー・チェンジをやった。

 ご存じの通り、ブッシュは再選した。アメリカの若者は今もイラクに送り込まれている。腹黒い石油産業や狂信的なキリスト教右派のために、若者たちは闘うことを強いられている。



親父は俺には他人だった
家を出て町のホテルに住んでいた
小さい頃、親父は他人だった
時たま道ですれ違う他人と同じだった
時たま道ですれ違う

そして今ここで、脱いだシャツを着ている俺には
今自分の子どもがいる
俺がこの神に見捨てられた世界に望むことは
間違いが一代限りであって欲しいということ
罪が一代限りであってほしいということ
(ロング・タイム・カミング)



「間違いが一代限りであってほしい」という認識は、渋谷氏が指摘するように重い。
こうした歌詞を、「闘いに負けた」スプリングスティーンが、一人の父親として歌う気持ちがわかるだろうか?
あらゆる事実・価値が相対化されつつある世の中にあって、スプリングスティーンの真摯な思いは、凄まじいまでのリアリティで訴えかけてくる。「どうか、自分の世代の過ちや罪が、自分の子供らに災厄として降りかからないで欲しい。このような過ちは、自分の代で終わりにしたい。」俺には、このように読みとれて、その決意の重さと真摯な思いに、陳腐な言葉だが感動してしまったのだ。


アルバム・タイトルとなっているナンバー「デビルズ・アンド・ダスト」について、渋谷氏はこうコメントしている。

『ここで歌われているのは「戦争は常に正義の名の下に行われる。そして、その正義こそが人を殺すのだ」という重い認識だ。いわゆるシンプルな反戦プロテスト・ソングとは全く違うレベルに立ったナンバーである。人はそれこそ正義を与えられれば何でもするのである。愛と平和のために人を殺すことだってできるのだ。というか、多くの戦争は祖国への愛、家族や友人の平和の為という正義の為に行われてきたのである。逆に言えば、人は自分の正義を信じられなければ人を殺す事はなかなかできない。』

平凡な学者/論客は、例えばイラク戦争について論じる。大義はあるのか、日本はどうすべきか、どこまでやるべきか。しかし、スプリングスティーンはそうした浅はかな論議を完全に超越している。そして、超越しているだけでなく、ではどうすればよいのかという答えまで用意している。間違いや罪を、俺たちの代で終わらすこと。

 結局、戦争について、特定条件下ではアリだとか、大義がどうだとか、それらは全て、本来「絶対的」であるはずの生命や人間の尊厳を相対化していく論理である。そこで議論している連中に多くの場合悪意はない。しかし、極めて「倫理的」に条件付けられた筈の「限定的」な戦争が、いつの間にか「何でもアリ」になっていく。それはちょうど、生命倫理に関する「滑り坂理論」=ひとたび特定の傾向を許すと、その傾向が加速していく現象ににている。「正当防衛」すら「防衛戦争」という概念にすり替わって、侵略戦争の口実になっていく。状況を仮定するより、そうならないよう努力する必要があるのだ。


「状況を仮定する」というのは、マスコミの得意技である。テレビには不安や対立を煽るような番組があふれている。だが実際に、今一番危険なのはブログであろう。ブログランキングのトップは常に「反中」「反韓」である。

各県の県立図書館は、たいていマイクロフィルムが見れるようになっているはずだ。見てみるといい、日中戦争直前の新聞記事を。あるいは太平洋戦争直前の記事を。ちょうど今のブログと同じである。憎しみや偏見を煽る記事のオンパレード。日頃の鬱憤を外国人に向けていく俺たちの祖父の世代。不満を外に逸らせて笑いが止まらない財閥・政府高官。そうして日本は文字通り挙国一致で戦争へ突入していった。
実際には、そうした報道は一部の「事実」を拡大した物に過ぎなかったのだが、メディア・リテラシーのかけらもない当時の国民は見事に踊った。

俺たちは、2代も前の人間と同じ過ちを犯すのか?そこまでバカなのか?


俺は約10年前、ホームステイで韓国に行った。そこは、良い奴もいればアホもいる(そういえば、「日本人」という理由でケンカ売られたなあ…)、要するに同じ「人間」の住む国だった。


Imagine all the people  Living life in peace
(「イマジン」ジョン=レノン)

必要なのは、自分自身の想像力だ。マスコミや、ストレスのはけ口としてのブログではない。
スプリングスティーンの思いは、ともすれば抽象的な議論や、プロパガンダ的な記事の応酬といったよく見かける光景を超越し、我々人間の持つ感情のリアルに訴えている。
[PR]
by g2005 | 2005-07-13 03:04