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もう一月が終わろうとしているのに、正月書いたことを今さらアップ

 2005年が始まり、カレンダーは新しい物に代わり、どこもかしこも「あけおめ」で、猫も杓子も「本年こそいい年でありますように」と初詣に向かい、ようやく一段落したのがちょうど今日あたりだと思うのだが(*本文は1月5日に作成)、しかしちょっと待って欲しい。
確かに新しい年と言うことで気分新たにスタートするのはいいことだが、去年の出来事を忘れてしまっては困るのだ。世の中のお母さんが子どもにいつも言っているように、宿題は片づけないといけないのだ。私にとっての宿題は「就職」だろうし、まあ他にも色々ある。皆さんも色々あるだろう。

 ところで、新聞も取っていないしTVも無い僕には世間の「情報」がほとんど入ってこないので、こうしたブログのネタに困る。
例えば新聞の朝刊やヤフーのヘッドライン猟奇的な犯罪やイラク派兵問題や北朝鮮拉致問題なんかがちょっと報道されたとしよう。あなたがその事件に関して「他の人はどう思っているのかな?」と思った時、ブログや掲示板を見れば困ることはないだろう(特定のブログ・掲示板だけでは書き込む層が固定されているので、広範な意見を集めようと思ったら様々なブログ・掲示板を見ないといけないし、そもそもブログ・掲示板自体がある程度「層が固定されている」が。少なくとも、60歳以上の方よりは、20代、30代の利用者が圧倒的に多いであろう)。
ネット上は様々な社会的事象に対する考察・意見であふれている。書き込むネタのない僕はどうしても「自分」や「自分に関係のある事」しか書き込めないので、こうした社会的事象をネタにしたブログ・掲示板を見ていると「楽そうだなあ」と思ってしまう(といっている僕のこの書き込みも一つの意見であるわけだが)。

 基本的にTVや新聞でやっていることは僕とは関係がない。社会福祉・社会保障に関しては関係あるが、別に運動とかやっている訳じゃない僕としては、せいぜい投票行動で「このやろう、俺の保障を奪いやがって」とささやかに一票の反撃をするしかない。じっくりニュースを分析して政策批判することもできるが、実際に政策に影響を与えるわけではない。
結果、せいぜい僕自身がちょっとしたカタルシスを得るくらいだ。もちろん、そうした作業自体を批判するわけではない。世論形成がこうしたミニマムな動きから始まっているという部分があることは否定できないだろう。

 ただ、最近はその「世論」がいいように「使われて」いる気がするのである。チョムスキーの言うところの「合意の製造」ってやつである。なにしろ、拉致問題もイラク問題も今のところ僕とはあまり関係がないし、大部分の人びとも同様の筈なのに、この大騒ぎっぷりである。騒ぐべきことはイラクと拉致だけではなく、他にもあるはずなのに、だ。バイアスは存在しないと主張する方が無理があろう。
 もちろん、拉致被害者には同情するから募金箱に小銭を入れたりするし(同情は連帯を拒否した時生まれる、という言葉があるが、何もしないよりマシということで)、自分の友人がイラクまで行って殺される可能性を無視できない、効率の面から行ってNPOを無視した国際貢献などあり得ない、金かかりすぎ、どう考えても違憲etcetc…といった理由からイラク問題に関して是とは言えない。突き詰めて考えれば、「俺が拉致られた時、政府は俺を守ってくれるのか。そもそも拉致られちゃうような国家間関係や国防って何よ」という点で関係があるし、「俺たちが払った税金は、どのように使われているのか」と考えればイラクって関係がある。ジョン・レノンは1969年(今から36年前!)に「誰もが戦争には責任があるんだ。だから全員が何かをやるべきなんだ」と言ったが、視野を広げればそういうことだろう。
 しかし、皮膚感覚として、僕と拉致問題やイラクは関係ない。多分ブログや掲示板で大騒ぎしている人たちも僕と同じレベルで関係があったりなかったりするはずだ。したり顔でTVに出てくるコメンテーターも、まあ似たようなもんだろう。ある意味、想像力豊かな人びとではあるが、その想像力が「では、拉致問題ほど酷くはなくとも、他の解決されるべき人権問題はないだろうか」とか「イラクで国際貢献って言ってるけど、アフガンはどうした?アメリカに破壊された具合ならばニカラグアやスーダンの方が数倍(現実には数百倍)酷いのではないか?北朝鮮はテロ支援国家どころかテロ実行国家なのになんでアメリカはイラクやアフガンと同じ理屈で攻撃しないんだ?」といった問いに及ばない点で、致命的に欠如している。「ドミニカ訴訟」はどうなんだ。沖縄における米軍の不法土地占拠は問題にしないのか。水俣病訴訟において最高裁が行政責任を認めたにも関わらず「司法と行政は違う」と未だに言い続ける厚生省は問題にしないのか(アメリカも、ニカラグアに対するアメリカの侵略行為を違法とした国際司法裁判所の判決を無視し、その直後にニカラグアにおける攻撃対象を「ソフト・ターゲット」=農協や診療所などに変更したが)。結局は、マスコミに与えられた問題に関して議論「させられている」だけじゃないのか?「合意の製造」に一役買っているだけなんじゃないのか?


Just victims of the in-house drive-by
They say jump,you say how hige

家庭内ドライブ・バイの犠牲者ってわけさ
ヤツらが飛べと命じれば、とっさにお前らは訊き返す、「どれくらい高く?」と

(RAGE AGAINST THE MACHINE "BULLET IN THE HEAD")
*ドライブ・バイとは「アメリカの大都市の治安の悪い地域で起きる発砲事件」で、「90年前後のLAでドライブ・バイといえば、無差別殺人を意味した」。レイジのアルバム"LIVE AT THE GRAND OLYMPIC AUDHITORIUM"の注より。


 話を戻そう。前にも書いたが、結局問われるのは「個」だ。「公」的問題を語る時、「で、そいいうお前は誰なんだ?」という問いが必ず立ち現れる。その問いに答えるためには、「公」的問題への個人的なアプローチが必要だと思う。自分との関係性で物事を語らない限り、結局は昨日見たTVドラマについて論じているのと変わらないのではないだろうか。
 一度、「自分の宿題」に立ち帰ろう。別に「自分のことも出来ないくせに、公の問題を語るな」などと言うのではない。その論法で言えば、誰もしゃべれなくなってしまう。自分の立ち位置から眺めることが、「飛べと命じ」られた時に「どれくらい高く?」ではなく、「なぜ」と聞き返せるようになるのではないだろうか。
 
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*アメリカによるニカラグアやスーダンへの「テロ」に関してはノーム・チョムスキーの「覇権か、生存か」(集英社新書)、および「9.11」(分春文庫)を参照した。現在の国際情勢を考える上で必須の参考書なので、まだ読んでいない方は急いだ方がいい。
 チョムスキーによれば現在アメリカが採用している先制攻撃理論はキューバやニカラグアやその他の地域で「昔からやっていたこと」らしく、特にニカラグアに関してはアメリカによる間接・直接介入という名の「テロ」が国際司法裁判所という最高の権威により断罪されたという弁解の余地のない事実があるため、まさに教科書的ケースとして学ぶことができる。
 ちなみに、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのギタリストでありザック・デ・ラ・ロッチャと共に中心人物であったトム・モレロはチョムスキーを熟読しているという。
by g2005 | 2005-01-22 17:14
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