僕は、今年度の初め頃、確か6月くらいだと思ったが、友人に手伝ってもらって、TVを実家に持って帰った。家電リサイクル法がなければ、叩き割って粗大ゴミに出していただろう。とにかく下らない番組に辟易していた。部活や研究で(ちょっとだけ)疲れて帰ってきて、さて部屋でくつろごう、と思っているのに、TVのスイッチを入れて5分後には「死ね!このウジムシ野郎!」という気分になり、くつろぐどころか疲れてしまう、そんなパターンに辟易したのだ。もちろん、TVというハードが全面的に悪いのではなくて(一方通行という問題などはある)、くだらない番組を作るマスコミ人に問題があるし、そしてそれを見て笑い、受容するカスが決定的に多いということに問題がある。素晴らしい番組だってたまにはある。問題は、番組の90%以上が僕を「クソヤロウ!」な気分にさせるということだ。末期には料理番組と天気予報しか見てなかったな。
ニルヴァーナのカート・コバーンは、93年8月(自殺する3ヶ月前)に、アルバム「イン・ユーテロ」に関するインタビューの中で以下のように述べている。 (インタビュアー) これが決定打となり、僕はTVとバイバイした。周りの意見を聞くと「スイッチつけなきゃいいじゃん」とか「そんなにTV番組をヤバイと思ってるのはオマエだけだよ」とか言われ、なんだか僕が変わり者のような気がしていたが(マイノリティであることは間違いない)、似たようなことを考えている人がいてややホッとした。ロッキングオン2005年1月号の古山氏のレビューである。 夕方のニュースを見ていると、ふとした瞬間に自分自身を疑いたくなることがある。行ったことがない国で人が殺された報せに悲しみ、バカな評論家が煽る実際には起こりもしょうのないような最悪の事態のシュミレーションに不安を覚え、一貫数千円の寿司の映像にヨダレを流し、仲間由紀恵のCMにちょっと嬉しくなり、ひいきのチームの試合の途中経過に一喜一憂し、天気予報の頃には酔いが回ってどうでもよくなる。一時間のうちにこれだけの「感情」の変化がありながら、それを当然のものとして何も考えずに受け入れていることに怖くなるのだ。その度に周りを見回すけれども、誰もそのことを気にしていないようだし、僕自身そんな疑問や不安に対しての興味は数分も経てば消えて、また数ヶ月は現れなくなる。(中略) 僕は古山氏の言いたいことに全面的に賛同する。もちろん、事実認識のレベルで僕にとってやや肯定しかねる部分もある。『ただこの数年、社会があまりにも「善いこと」と「悪いこと」~』という下りがそれで、むしろ明確な価値軸を自分自身では(経験や勇気の不足で)打ち出せないヘタレどもが、マスコミやクソ野郎が打ち出した価値観に飛びついた、という捉え方を僕はしている。ちょうど、若者が日の丸に飛びつき、他人を誹謗するのに似ている。彼らは偏狭なナショナリズムから「韓流ファック」と言うが、主体性の欠如したメンタリティーは変わらない。ようするに、他人の作った価値観や構造に飛びつき、あてはめ、カタルシスを得るという意味において共通したヘタレなのだ。ただこんなことは枝葉の部分で、古山氏に賛同するということに影響はないが。 僕も『安易に売買される「感情」を作ったり、手にしたりして満足している人間』に対しては、「おまえさん早く死んだ方がいいぜ」と思っている(つけ加えるなら「感情」だけでなく「価値観」も)。みんな、自分の頭で考えていないのだ。マスコミや一部のクソ共のプロパガンダが提供した「価値観」に従い、心の中から表出してきた何かを、既成の「感情」や「認識」に振り分けて喜んでいる。 もちろん、僕の憎悪の対象はバラエティー番組の「笑い」といったポジティブな感情の「安売り」にも向いている。なんであんなくだらねえ事で笑えるんだ?それって他人のことだろ?芸人が何をどうしようが、自分自身とは何の関係もないだろ?頼むから、飲みの席で芸能人の話するなよ。お前と飲んでいるのは誰なんだ? また、こうした「感情」の状況について山崎洋一郎氏は以下のように述べている。 (モリッシーやキュアーの復活に関して) 彼らは常に他人と距離を置き、物事に対して懐疑的で、周囲の状況に対してとりあえず反射的にNOと言ってしまうような気質があり、あれもNO、これもNOと言っているうちに出口がなくなって閉じちゃって、変な風に爆発しちゃうのである。これが80年代の屈折メンタリティーであり、ロックに対してすらNOと言った挙げ句に異形の音楽が次々と生まれていったのである。(中略)だが、今回復活を遂げた彼らは、もはや単なるNOではなかった。その復活作はどれも、これまでの異形のスタイルやコンセプトを貫いたまま強力な肯定性を放っている。今回の復活が同世代だけでなく若い世代からも賞賛されたのは、屈折したメンタリティーを何十年も貫きながら今の時代に大きな影響を与えるほどの普遍的な存在感を持ち得た彼らに、力強いYESを見いだしたからに他ならない。 テロの多発だとか中学生による殺人事件だとか、まるで悪い夢でも見ているような気分にさせられる邪悪な事件が途切れる事なく次々に起きている。こんな世の中には、誰もがNOと叫ぶだろう。だが同じように、『世界の中心で、愛を叫ぶ』が300万部売れたという事実にも僕は悪い夢でも見ているような絶望的な気分にさせられる。パンク・ロックに相田みつをの詩を載せたみたいな青春パンクを聴いて若者が涙ぐんでいるのを見るのも僕にはひどい悪夢だ。『世界の中心で、愛を叫ぶ』を読んで、あの三流のドラマに感動した人は、きっと感動したかったんだろう。みつをパンクに涙ぐむ人は、きっと泣きたいのだろう。自分が今生きている世界に対して巨大なNOを言わざるを得ない代わりに、ささやかでもどこかでYESと言いたい。それがこうした三流のYESの大安売りとなって現象化しているのだろう。みじめな「ガス抜き」の構造。三流のYESでガス抜きすればするほど、戦うための唯一の武器であるNOは錆びつき、本当に確信に満ちたYESにたどり着く日は限りなく遠のいてしまうというのに。不治の病で死んだ恋人の物語に同情して泣いたって何も変わらない。「人間だもの」とか「そのままでいいがな」とかいう詩を読んで自分を許したって何も変わらない。何も変わらないという最も絶望的な構造にゆっくりと飲み込まれていくだけだ。 (ロッキングオン2004年8月号200p"激刊山崎") 付け加えるならば、他人の不幸や勘違いしたつっこみ(と称する暴力)をネタに下品に笑い(「喜び」か?)を取るバラエティーも「三流のYES」であろう。まあ、笑いには免疫力を向上させる作用があると聞くから、サプリメントと割り切っている分には良いかも知れない。クソコメンテーターやクソ学者の討論は言うまでもない。 古山氏や山崎氏の主張を聞くと、長渕剛が"Captain of the ship"で執拗に「お前がどうするかだ、お前がどう動くかだ」「お前がやれ、お前が舵を取れ」「お前が行け」と叫んでいたのを思い出す。『結局迫ってくるのは「個」』という古山氏の指摘は鋭い。僕もそう思う。僕たちが、したり顔してもっともらしいこと言うウザイ奴らの抑圧をはねのけ、自分自身の幸福を追求するためには、「お前がどうするか」が大事なのだ。「癒し」とか言ってる場合じゃない。「伝統」「愛国心」とか言ってる場合でもない。(その実態は、明治政府が作った「思い出」だったり、「愛国故の反抗」を抜きにした「政府に従う=愛国心」だったり) 自分の頭で考え、行動する。それだけだと思う。それが他人の権利を侵害しない限りで。マリオネット人生からおさらばしようぜ。まずはTVから離れてみよう。 TELEVISION DREAMS OF TOMORROW WE'RE NOT THE ONCE MEANT TO FORROW FOR THAT'S ENOUGH TO ARGUE テレビは明日を夢見てるけど そんなものに従ってどうする それだけで 既に疑わしいじゃないか GREEN DAY "AMERICAN IDIOT"より
by g2005
| 2004-12-11 23:02
| 主張
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